新美南吉の『ごんぎつね』、小学校国語でだれでも読む物語だ。
あらすじを述べると、物語は次のような展開だ。
農村に住む青年の兵十は、病気の母のためにうなぎを捕らえる。しかし、そのうなぎをいたずら好きのごんぎつねが盗んでしまう。兵十の母は、結局うなぎを食べられないまま亡くなってしまう。
ごんは自分の過ちを知って心を痛める。
そこでごんは、兵十の家の近くに栗や松茸を毎日のように置き続ける。
兵十はそれを神様の恵みだと思っていた。ところがある日、家に栗を届けようとしたごんを兵十が見つけ、火縄銃で撃ち殺してしまう。
息絶えるごんを前に、兵十はようやく、毎日栗を運んでくれていたのがごんだったことを悟る。
兵十は「ごん、お前だったのか」と、つぶやきながら、火縄銃を取り落とす。
これだけの物語だ。多くの場合「誤解とすれ違いの悲劇」として読まれる。
ごんの無邪気ないたずらが結果的に兵十の母の死につながり、それを償おうとした行為は報われず、かえってごん自身が命を落とす。
ここで、一つの疑問が生まれる。果たしてごんぎつねは、本質的にキツネでなければならないのだろうか?
なぜキツネを登場させたのか
この作品を書いたのは新美南吉だ。書かれたのは大正から昭和初期にかけての時代である。当時の人々の生活は都市化が進みつつも、今よりもはるかに農村と近接していた。
日本文化においては、狐は特別だった。昔から「人を化かす」「ずる賢い」といったイメージを背負ってきた。
日本の信仰や民話の中では、狐は、動物でありながら、時に「人間のようにふるまう」存在だった。
ごんぎつねでは、キツネは「人間性と獣性の両方を同時に体現できる」属性として登場するのである。
キツネは、「人間に近いが違う」存在、そして、読者が感情移入しやすい愛嬌ある動物でありながら、農村にとっては現実的な害獣でもある。そして、キツネが持つ、その二面性によって「誤解された存在」という構造を強調できる。
キツネの害獣性と物語の危うさ
しかし一方で、狐を選んだことには危うさも潜んでいると思う。
農村では、狐は鶏を襲い、作物を荒らし、狂犬病の恐れがある存在だった。つまり狐はかわいらしい動物というよりも、生活を脅かす敵であった。
そうした現実を知る農村の読者にとって、ごんを「かわいそうな存在」として描く物語は、むしろ現実離れして見えるのではないだろうか。
害獣退治を実際に経験した人にとっては、「兵十が狐を撃ったのは当然のことだ」という感覚が先に立ち、物語の中心であるはずの「哀れなごんへの同情」には、入り込めない。
そうすると『ごんぎつね』は「弱者への共感を呼ぶ物語」ではなくなる。「自然を美化した都市的感性の産物」に見えてしまうのである。
狐でなくても成立するのか?
さて、「ごんぎつね」は狐でなくても成立したのだろうか?
もしごんを孤児や物乞いとして描けばどうだろうか?
しかしそれではあまりに人間的で社会的で生々しく、児童文学教材としてはふさわしくなかったかもしれない。
また現代に置き換えるなら、ごんは都市に暮らす移民や外国人労働者に対応するかもしれない。それではごんぎつねの代わりに「誤解される移民」「誤解される実はやさしい外国人」を描けばより分かりやすいのだろうか?しかしそうなると物語は純粋な寓話ではなくなる。現実の、現代の、社会問題をめぐる議論へ移行してしまう。
つまり、どのような具体的姿を与えても、読む人の経験によっては同情が拒否される危険を抱えているのである。
この点で、狐は「ちょうどよい中間存在」である。
人間では生々しすぎ、かといって、昆虫や蛇では感情移入できない。狐は害獣としての現実感をもち、しかし、同時に、民俗的・文学的な想像力を引き出す存在だったのである。
ごんぎつねの本質
それでは、『ごんぎつね』の本質とはどこにあるのだろうか?
狐という具体的動物にあるのではない。
ごんは「罪を犯す」「誤解される」「償おうとするが届かない」存在である。
兵十は「失ったものを悲しみ、他者を誤解し、排除する」存在である。
両者は対立関係に見えるが、実は一人の人間の中に同時に宿る両側面を描いている。
私たちは人生の中で、時にごんのように誤解され、声が届かず排除される立場に立つ。
また時に兵十のように他者を誤解し、取り返しのつかない行為をしてしまう側にも立つ。『ごんぎつね』は、狐を通じてこの人間の二面性を寓話的に描いているのだ。
したがってごんぎつねとは、狐の物語ではなく、人間存在の寓話である。
ごんは私であり、あなたである。兵十もまた私であり、あなたである。
私たちは生きる中で、誤解されるごんとなり、また誤解する兵十にもなる。
この普遍性こそが、『ごんぎつね』が時代や文化を越えて読み継がれる理由であろう。
まとめ
ごんぎつねは本質的に狐なのか? 答えは「否」である。
狐は物語を寓話化するための仮面であり、その背後には「人間の条件」が描かれている。
ごんの姿に哀れみを感じるとき、私たちは自分の中に潜む「誤解される存在」を見ている。
そして兵十の姿に納得や苛立ちを感じるとき、私たちは自分の中に潜む「誤解し、排除してしまう存在」を見ているのである。
だからこそ『ごんぎつね』は、子どもにとっては道徳の教材となり、大人にとっては人間存在の寓話として心に残り続ける。
狐は入り口にすぎない。物語の本質は、狐を超えて「私たち自身」の姿を描いているのだ。

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