「少年の日の思い出」再読 恋愛小説として読む


ヘルマン・ヘッセの短編『少年の日の思い出』は、長年にわたって中学の国語の教科書に掲載され、多くの人々が読んできた。自分も授業で読んだし、一般的には「友情」「嫉妬」「誠実さ」といった教育的テーマのもとで読まれてきたと思う。

特に、終盤での「エーミール」の言葉、「そうか、そうか、つまり君はそんなやつなんだな。」は多くの生徒に強い印象を残した。

今回、この作品を改めて丹念に読み直すと、そこには友情や嫉妬にとどまらない、より強く複雑な感情の変遷が描かれていることに気づく。

特にエーミールの「僕」への態度を追っていくと、彼が「僕」に対して抱いていた(同性間の)恋愛感情を読み取ることが可能である。

恋愛感情を中心に考えるのは、あくまで一つの読み方にすぎないわけだが、以下では、エーミールの「僕」への恋愛感情がどのように芽生え、どのように揺れ動き、最終的に拒絶へと至ったのか、その変遷を追っていきたい。

あらすじ

さて、簡単にあらすじを振り返っておこう。

ヘルマン・ヘッセ『少年の日の思い出』は、蝶の標本をめぐる少年たちの思い出を描いた物語である。語り手の友人「僕」は、幼少期に蝶の収集に熱中していたが、同じ趣味を持つ模範的な少年エーミールを妬み、憎んでいた。ある日、憧れていた珍しいクジャクヤママユを偶然エーミールの部屋で見つけ、欲望に負けて盗み出すが、返そうとした際に誤って壊してしまう。罪悪感に苦しんだ僕は母に告白し、エーミールに謝罪に向かう。だがエーミールは怒鳴らず、冷たく「君はそういうやつなんだな」と断じ、僕の贖罪の申し出も受け入れなかった。失意の僕は自らの蝶の標本を一つ一つ粉々に潰し、少年の情熱の終わりを迎える。

出会いと観察

物語の冒頭、エーミールと「僕」は蝶の収集という共通の趣味を通じて結びついている。両者はある意味対照的である。僕は熱情的で夢中になりすぎるあまり、蝶の取り扱いは不器用で、標本の箱も粗末だ。それに対してエーミールは模範少年として描かれ、貧弱なコレクションながらこぎれいで正確であり、羽を継ぎ合わせるような細かい技術さえ持っている。こうした描写は通常、「模範と未熟」「嫉妬と羨望」の構図として理解される。だがよく見ると、エーミールの態度には友情以上の関心が滲み出ている。

青いコムラサキを見せたとき、エーミールは細部まで観察し、価値を認めつつ欠点を次々と指摘した。「僕」にしてみればその態度は嫌味にしか思えなかったかもしれない。しかし、欠点までも丁寧に挙げるその姿勢は、対象を丹念に見つめる眼差しにほかならない。つまりエーミールは「僕」の蝶を通して、「僕」そのものを深く意識していた。彼にとって「僕」は単なる仲間ではなく、観察すべき特別な存在になりつつあったのだ。友情はやがて、恋愛感情へと移ろう素地をすでに含んでいたといえる。

エーミールは模範少年として冷静で、表面的には嫉妬を見せない。しかし心の奥底では、「僕」が持つ熱情に惹かれていたことは否定できないだろう。自分にはない無鉄砲さ、熱に浮かされたような蝶への愛着は、彼にとって眩しくも危うい魅力として映っていたはずだ。恋愛感情はしばしば羨望と嫉妬を伴う。相手の存在が気になりすぎるがゆえに、細部に目が行き、時には嫌味や冷たい態度に置き換わる。

実際、エーミールの「君の蝶は脚が欠けている」「触角が曲がっている」といった言葉は、ただの冷酷な観察ではなく、好意を抱きつつも素直に表現できないエーミールの不器用さの現れだと読み取ることができる。

クジャクヤママユ

物語の中心となる事件は、僕がエーミールの部屋でクジャクヤママユを盗み、壊してしまうことである。

エーミールにとってこの蝶は特別な存在であった。珍品としての価値はもちろんだが、それを手に入れ、育て、標本にする過程で彼の努力と愛情が注がれている。そこに「僕」が触れ、壊してしまったことは、単なる盗みや事故以上に、心の奥の親密さを踏みにじられた体験となった。

もしエーミールが僕に恋愛的な好意を抱いていたとすれば、この事件は「愛する人に裏切られた瞬間」として刻まれたであろう。

告白の場面

僕が罪を告白し、母に促されて謝罪に行く場面は、エーミールの感情がもっとも露わになる瞬間である。彼は怒鳴らず、ただ舌打ちをして「君はそういうやつなんだな」と静かに言う。

この言葉の重さは、友情や非難の感情だけでは説明がつかない。むしろ、恋愛的な「僕」の人格への期待があったからこそ、裏切られた痛みは大きく、相手を罵倒するよりも冷静に断定するしかなかった。

「君はそういうやつ」という全人格的な否定には、愛していたからこそ絶望した気持ちが込められている。この一言が強烈に印象に残るのは、読者がその背景に隠された感情の深さを直感するからである。

贈与の拒否

その直後、僕は贖罪のしるしに、おもちゃや蝶のコレクションを差し出す。しかしエーミールは「結構だよ。君の集めたやつはもう知っている」と冷たく言い放ち、受け取らない。

ここに彼の心の葛藤が凝縮されている。コムラサキ以来、「僕」はエーミールに蝶を見せていない。にもかかわらずエーミールが「僕」のコレクションを「知っている」と言ったのは、彼が密かに僕の収集を観察していた証拠である。つまりエーミールはずっと僕に関心を寄せ続けていたのである。

しかし不用意に好意を露呈してしまったと気づき、「そのうえ今日また君が蝶をどんなに扱っているかを見ることができたさ」と理由を付け足して取り繕う。このように、エーミールの拒絶は冷酷さではなく、恋愛感情を隠すための自己防衛であったと読むことが可能である。

エーミールの視点から見ると、贖罪のしるしとはいえ「僕」のおもちゃやコレクションを受け入れてしまえば「僕」を自分の近くに置くことになり、感情を抑えきれなくなる。だからこそ彼は拒否したのだ。

愛の破壊と自己防衛

こうした感情と行動の相反は、「少年の日の思い出」全体の基調となっている。

物語の中で、最終的に、「僕」は自分の蝶を一つ一つ粉々に潰す。愛してやまないものを自ら壊すことで、罪と絶望を抱え込むのである。

エーミールもまた、「僕」を拒絶することで、自分の好意を壊した。

両者の行動は「愛しているからこそ壊す」という逆説で共鳴する。「僕」は蝶を、エーミールは恋愛感情を、それぞれ破壊することでしか均衡を保てなかったのである。

まとめ

『少年の日の思い出』は教育的には友情や嫉妬の物語として読まれてきた。

しかしエーミールの感情の変遷を追うと、それは明らかに恋愛小説としての側面を持っている。観察から始まった特別な意識は、嫉妬と好意に交錯し、裏切りによって拒絶へと転じる。

最終的にエーミールは感情を隠し、自己防衛のために拒絶を選ぶ。

人間は、好きなものが近くにありすぎるとき、耐えがたさに壊すことでしか処理できない。エーミールと「僕」の関係はその普遍的な矛盾を体現している。

「そうか、そうか、君はそういうやつなんだな」という短い言葉が多くの読者に強い印象を残すのは、単なる非難や罵倒ではない「恋慕の裏返しとしての拒絶衝動」を直感的に感じ取るからであろう。


コメント