今回は、中学の国語の授業で読んだことがある「握手」(井上ひさし)を再読していきたい。
人間にとって「触覚」は特別な意味を持ち、言葉以上に記憶を鮮やかに残す。幼少期に両親の手に触れることから始まり、友人や恋人との手のつなぎ方、師や目上の人との握手など、触覚は人間関係の根底に存在している。
この短い物語の背後には、季節や世代の移ろいを思わせる『循環』のイメージがひそやかに流れている。今回はそこに光を当ててみたい。
あらすじ
「握手」はごく短い物語であり、あらすじは次の通りだ。
語り手は、東京の上野公園にある西洋料理店で、かつて孤児院「天使園」に入っていたときの恩師、ルロイ修道士と再会する。彼の握手はかつて万力のように強かったが、今はやさしく、出されたオムレツもろくに食べられなかった。天使園の思い出話をして別れるが、実はルロイ修道士は重い病気で、かつての教え子に会ってまわっており、その後、まもなくして亡くなってしまった。もうすぐ一周忌である。
数々の循環
さて、この物語には「循環」や「繰り返し」を想起させる表現が数多く出てくる。それを見ていこう。
まず、「握手」が春を舞台にしていることは偶然ではない。春は「出会いと別れ」「死と再生」の両方を象徴する季節である。とくに日本文化では「桜」「新学期」などと重なるため、より、その傾向が増す。
桜は咲き誇ったのちに散り、葉桜となり、翌年また咲く。その循環は、人間の生と死、記憶の継承を重ね合わせることができる。
物語の舞台は東京の上野であるが、近くの有名な動物園はお休みであるという描写がある。ここにも「周期的にやってくる定休日」という概念から、人間社会の営みが週ごとの周期に支配されていることが暗示される。
作中には「捨て子が春に多い」という描写がある。季節が人間社会の出来事とも深く関わっていることを示している。春という季節が選ばれたことで、物語は単なる「別れの叙述」ではなく、「循環の中に位置づけられた別れ」として読めるのである。同じように、父子二代で天使園にやってくることが「いっとう悲しい」出来事として書かれているが、これも世代による同じことの繰り返しをわかりやすく描いている。
ルロイ修道士の言葉「困難は分割せよ」という命題も、循環の文脈で理解できる。大きな困難は一度には解決できない。だが日ごと、週ごとに小さな課題へと分割し、「今日はここまで」「今週はここまで」を繰り返して、循環的に取り組むことで、克服可能になる。
ルロイ修道士の生活や指導もまた、日曜ごとの休みや月ごとの準備といった周期に支えられていた。困難を分割して周期に沿って処理することは、自然のリズムに人間が適応する方法なのである。
宗教的な時間感覚も強調されている。
日曜日は休む(一週間の循環)ことをルロイ修道士は咎められた。毎年やってくるクリスマス(年ごとの循環)に語り手は仙台から東京へ繰り出した。ルロイ修道士が死んでから、「まもなく一周忌」(年単位の循環)であり、死者を記憶に甦らせる。ルロイが将来像として語る「カナダでの畑仕事」は春夏秋冬の自然の循環に従った生活を連想させる。
そして、ルロイ修道士は、死後に天国へ行くという信仰(永遠の再生)を語る。実際、「修道士」はいうまでもなく宗教的な時の流れを体現する存在である。宗教的な周期は、人間の時間を直線的なものから循環的なものへと変える装置である。
物語はまた、世代を超えた循環と継承を描く。修道士の癖は教え子たちに受け継がれ、語り手自身も「せわしく指を打ち付けるリズム」を無意識に再現する。上川くんの親指の動作もまた、修道士の癖の継承を示すものだ。これは血縁を超えて「身体的な行為が継承される」ことを象徴している。思想や言葉以上に、無意識の身体的な仕草が次世代に残り、循環するのだ。
ほかにも、「月に一度か二度」バスに乗る習慣、「一月間」口をきかない、準備に「三ヶ月」、汽車に乗るために時計を見上げる、腕を上下させる、てのひらをすり合わせる・・・など、短い物語の中に、時間的リズムを示す描写が満ちていることがわかる。
多少こじつけのようだが、作者が与えた「ルロイ」という登場人物の名にも注目したい。これはフランス系カナダ人の人名として登場するわけだが、日本語にしたときの「ルロイ」という響きには、ラ行の「る」「ろ」という、舌を巻く音が含まれている。ラ行音は口腔内で反復する振動のような響きを持ち、リズムや繰り返しを連想させる。また、ロは四角い閉曲線を思わせる文字で、囲み・円環を示す形象を帯び、イは「井」や「囲」の字を連想させる。このように、「ルロイ」という名の中にも、繰り返しを象徴する要素を見出すことが可能なのだ。
再生しないもの
いっぽうで、循環せず二度と再生しないものも丁寧に描かれている。
ルロイ修道士は、病を得て衰え、かつて樫の木のように力強かった手は、今では骨ばって弱くなっている。まるで万力のように強かった握手も弱々しくなった。
また、ルロイ修道士の手には潰れた爪があり、この爪は過去の強制労働時に叩き潰されたため、二度と再生しない。生命の有限性を象徴する描写である。
有限性で言うと、ルロイ修道士の前に置かれるのは、ラグビーボールのようにふくらんだプレーンオムレツである。オムレツは食べ頃を逃せばすぐに劣化し、もう二度と美味しく食べられることはない料理である。この料理の「はかなさ」を読者は無意識のうちに感じ取るようになっている。
西洋料理店にはいろいろな料理があると思うが、ここでオムレツを選んである理由がそこにある。保存食の「ソーセージ」や、冷めても温め直せば大丈夫な「ステーキ」、時間が経つとむしろ味がしみて美味しくなる「スープ」「シチュー」、熟成する「チーズ」などでは、物語のテーマにそぐわないのである。
さらに、物語の最初と最後に登場する「桜」は日本文化において「すぐ散って、はかないもの」の代表であり、さらに印象を強くするのが、桜が散った後の「葉桜」を登場させていることである。このように本作では、生命の有限性が何重にもわたって描かれているのだ。
円環的構造
導入部と結末部は、物語全体の印象を決める重要な部分だ。そこにも作者の細やかな配慮を見てとることができる。
物語は、ルロイ修道士が「時間通りにやって来た」ところから始まる。季節の循環、人間の生と死に関わる多くの現象が、時間通りにやって来て、循環と再生を繰り返すという作品全体のテーマを暗示している。
ルロイ修道士が「時間通りにやってきた」ところから始まり、「一周忌」や「せわしく打ち付け」るリズムの描写で終わる、という構造で展開することによって、物語全体にリズム的な円環構造を付与している、と読むこともできるであろう。
まとめ
こうして見ていくと、「握手」という作品は多層的な循環のモチーフに満ちている。
季節の循環(春、桜)、人生の循環(強い手から弱い手へ)、宗教的循環(日曜、クリスマス、一周忌)、生活の循環(定休日、畑仕事、オムレツの一瞬)、記憶と行為の循環(癖の継承、触覚の記憶、父子二代の天使園)
その中心にあるのは「握手」という触覚的な記憶である。
握手は一度きりの行為だが、記憶の中で繰り返し甦り、次世代へと受け継がれる。この物語は、死と別れを描きながらも、その中に続いていくものがあることを示す「循環と継承の物語」なのである。

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