高校時代の読書体験
高校で『羅生門』を読んだときの感想は、ただ「暗くていやな話だ」というものだった。
物語の筋は単純である。京都の門(羅城門)の下に死体が積み重ねられ、老婆がその髪を抜いている。そこへ一人の下人が現れ、はじめは正義感を見せるが、結局は老婆の着物を剥ぎ取り、夜の闇へ消えてしまう。救いのない結末であり、不潔な描写は不快であり、当時の私には「正義の下人が悪に堕ちる話」としか理解できなかった。
さて、年月を経て改めて読み直すと、そこに見える風景は違っていた。大人になって墓や法事にかかわるようになった経験により、少しは作品を読む眼が変わったように思う。

生者中心の社会
『羅生門』では、死体が京の玄関口である門前に放置されている。これは決して突飛な設定ではない。死者を弔うことは重い負担であり、庶民にはとても難しかった。現代においてさえ、墓を維持するには寺への寄付や墓地の手入れが欠かせない。それらは一人でできるわけではない。みんなで草を抜き、石を掃除し、山を削って土地を整え、親戚や地域の共同体で管理する。戦後になって急激に整備された大理石の墓も、せいぜいここ数十年のものにすぎない。それ以前は土葬や穴埋めが一般的で、都市では死体を河原に運んで放置するのが日常だった。
戦後、石の墓が普及し、死者は社会的に位置づけられるようになった。しかし現代は少子高齢化と過疎化の影響で墓じまいが進み、ロッカー式納骨堂や合同墓へと移行しつつある。結局、死者は自分で動けず、生者の都合で扱われるのである。
『羅生門』の老婆は死体の髪を抜き鬘を作ろうとし、下人は老婆の着物を奪う。死者は完全に「モノ」と化し、生者の生活のために利用される。ここに「生者中心の社会」の構造がある。人は死んだ瞬間に尊厳を失い、生きている者にとっての「処理すべき対象」となる。私も、病床で長らく動けなかった親族が亡くなった途端に、相続や家の整理が一気に進む光景を目にしたことがある。死者はその時点で「存在」から「処理」に変わる。羅生門の死体の山は、この冷酷な現実を象徴している。
「仕方がない」の論理と現代社会
もう一つ気づかされるのは、私たちが「ものの来歴や行き先」に無関心であることだ。蛇を干して魚だと偽って売る女、死体から髪を抜く老婆、追い剥ぎをする下人。彼らはみな「仕方がない」と言い訳をする。食べ物が蛇であろうと魚であろうと大差はないし、カツラが死体の髪からできているなど誰も意識しない。
現代においてもこれは同じである。21世紀のグローバルな問題を考えてみよう。発展途上国でのコーヒー農園での低賃金労働やファストファッションの搾取構造、環境破壊。問題だと知りながら、私たちは「安いから」「必要だから」と受け入れてしまう。
老婆の素朴な理屈は、現代社会では「経済合理性」「効率化」「グローバル競争」といった言葉でより強力に理論化されているにすぎない。つまり『羅生門』は「個人の悪」を描くのではなく、「社会に組み込まれた悪」を描いているとも言える。
動物と人間の本能
物語には動物の比喩も効果的に使われている。蟋蟀(キリギリス)は冬を前に死を待つ虫であり、老婆の老いと終末を暗示している。カラスは死体を啄みに来る鳥であり、死者を利用して生き延びる下人の姿そのものだ。
老婆の仕草は猿が虱を取るように喩えられ、人間の行為が動物の本能に還元される。下人が老婆を押し倒す姿は、まるで肉食鳥が獲物に襲いかかるかのようだ。
芥川は人間を理性的存在としてではなく、「生きるために奪う動物」として描いている。
現代性を帯びた語り
語り口の現代性も忘れがたい。
「作者はさっき…と書いた」とナレーターが突然顔を出す。下人の感情を「sentimentalisme」とフランス語で表す。舞台は「京」であるはずなのに「京都」と表記される。
こうした仕掛けは物語を過去の説話に閉じ込めず、現代に引き寄せている。そして結末は「下人の行方は誰も知らない」。ここには「歴史に吸い込まれていく個人の儚さ」と「それでも必死に生きる切実さ」とが同時に込められている。
下人の行方と歴史の視線
下人は自分の行方を知っている。しかし歴史はそれを「誰も知らない」と突き放す。個人にとっては全世界を揺るがす決断も、社会にとっては無数の人間の一つにすぎず、やがて忘れられる。
現代社会でも同じである。貧困や搾取は統計で処理され、「何万人が低賃金で働いている」と数値で表現される。しかしその一人ひとりにとっては生死を分ける重大事であり、人生のすべてを揺るがす問題なのだ。
私は社会人として働く中で、この構造を痛感した。誰かが退職する時、本人にとっては人生を左右する重大な決断である。しかし組織に残る側にとっては「退職者の○○さんの行方は誰も知らない」で済んでしまう。
『羅生門』の下人の姿と重なって見える。
なぜ羅城門なのか
舞台が羅城門であることにも必然性がある。
河原や寺の廃墟では同じ効果は生まれなかっただろう。河原なら「人間は自然に還る」という不変性が強調され、救済的な響きすら帯びてしまう。寺の廃墟なら信仰の衰えが強調されたかもしれない。
しかし羅城門は都の象徴的建築であり、その繁栄と荒廃が人々に広く知られていた。だからこそ寓話的な力を持ちえたのだ。かつての豪壮な正門が死体置き場に転落する。人間の生が死に転じるように、文明の象徴もまた廃墟となる。
「きらきら生きる人間」から「死体」へ、「豪華な羅城門」から「暗がりの廃墟」へ。この対比が物語を成立させている。
芥川と下人の対照
対比と言えば、作者の芥川龍之介は、文学史に名を刻み、百年後の私たちに読み返され続けている。
歴史に埋没する無名の庶民と、文学によって残る作家。この落差もまた、『羅生門』が提示する逆説だろう。
一人ひとりは主人公である
下人は名前すら与えられず、最後には歴史に吸い込まれていった。だが下人の一瞬は、彼にとって全世界だった。
私たち一人ひとりも同じである。
社会から見れば取るに足らない数の一つでも、自分の人生においては唯一無二の主人公であり、必死に考え、選び、行動していくのである。

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