「銀河鉄道の夜」の感想 理科好きの子供として引っかかった場所から


『銀河鉄道の夜』を久しぶりに読み返した。
これは子供のころ、国語の教科書か何かで読んだと思う。
調べてみると、中学一年生の国語教科書に載っていたらしいが、もうちょっと早く少年文庫のようなもので読んだような気もする。
銀河鉄道の夜は1930年代に書かれた作品であるようだが、その後の翻案も多く、「銀河鉄道999」はアニメ化されて有名だし、ドラえもんにも「天の川鉄道」で宇宙へ向かう話があった。



あらすじ

あらすじは次のような感じだ。
主人公は「ジョバンニ」という少年、学校では理科の授業で銀河が小さな星の集まりだということを習う。夜に、カラスウリを川に流す「銀河まつり」に出かける。途中で草むらで眠ってしまい、いつのまにか銀河鉄道に乗り込み、友人カムパネルラと出会う。途中、天国へ向かう死者たちが乗り込んでくる。星空の石炭袋を見たり、「ほんとうの幸せとは何か」といった話を交わす。ジョバンニは草むらで目を覚ます。
銀河祭りの場所へ向かうと、カムパネルラが川に飛び込み、行方不明になったことを知る。皆が探す中で、カムパネルラの父親である博士は、時計を見てこう言う。「もうだめです。落ちてから四十五分たちましたから。」ジョバンニは何も言えず、牛乳を持って家路を急ぐ。

「なんだかめちゃくちゃな話になったな」

さて、自分が少年時代のころ、「銀河鉄道の夜」を読んだときに抱いた、「違和感」から振り返ってみたい。
物語は理科の授業から始まる。先生は銀河の構造を詳しく説明する。天の川は、乳の流れた跡だとも言われてきたが、実際には無数の恒星の集まりであり、模型を使えば説明できる。ここは「ふむふむ」と思って読んだ。理科の図鑑で読んだ内容と一致していたからだ。


ところが中盤から、話は急におかしな方向へ進む。死者が列車に乗ってきて、天国や祈りや「ほんとうの幸せ」について語り合う。さそりの話は神話のようで、どこか違う。列車に乗っていたカムパネルラも突然消えてしまい、読みながら、「なんだかめちゃくちゃな話になったな」と思ったのを覚えている。
当時の自分は、無意識に「国語の教科書なんだから、科学的なところは本質ではない」「後半の死者が乗ってくる、非現実的な話のほうにこそ意味がある」という前提に立って読んだと思う。なので、後半の宗教的・象徴的な部分を「本質」として理解しようとしていた。

しかし、読み直してみると、印象は変わった。前半は思っていた以上に科学的であり、銀河の説明、模型、アルコールと石油の燃焼の違い、列車の動力は石炭ではないのではないかという推論、月夜かどうかという観察条件など・・・どれも「考えれば説明できそうな現象」である。理科好きの子供が強く引き込まれる入口になっている。

こうして冒頭の「餌」によって、科学的に考える読者が関心を惹かれて読み始めるが、その科学的思考は完走させられない。純粋な理科書であれば、銀河の説明のあとに「では観測してみよう」「計算してみよう」と続くはずだ。しかし本作では、そこから夜の軽便鉄道、死者、祈り、神話の世界へと、いきなり舵を切る。
科学については、教師や博士、大学士といった権威が登場し、「どちらが正しいか」という正しさの競争が成立している。一方で、神話や宗教的信念については、正誤の競争そのものが無効化される。

さそりの話などは、その典型である。さそり座の神話だとすれば、オリオンを倒した功績によって星座に上げられたという話が有名だが、本作ではまったく別の、自己犠牲の倫理の話になっている。ギリシャ神話としてはずれており、神話として間違っているのでは?と思う読者もいるかもしれないが、作品の中では訂正されない。「おっかさんは許してくれるか?」という問いも、正しい答えが与えられることはない。

つまりこの作品には、科学と神話の非対称構造がある。前半の科学についていけなかった読者は、後半の「正解を求められない語り」によって救われる。一方、前半を面白いと感じた理科好きの読者ほど、後半で足場を失い、「めちゃくちゃだ」「読む価値がない」と感じて脱落しやすい。自分は、どちらかというと後者だったように思う。

どの破綻に引っかかるか?

『銀河鉄道の夜』では、読者がどこに引っかかるかそのものが、この作品の一部になっている。
列車の動力に反応する読者がいる。
作中では、アルコールランプで走る汽車の話が出てくる。アルコールを燃料にすれば比較的きれいに燃えるが、石油を使うと不完全燃焼を起こしやすく、煤が出る。この経験談は、理科的にはとても正確だ。ここで「なぜ煤が出るのか」「燃焼条件の違いは何か」と考え始める子どもがいても不思議ではない。
また、「銀河まつりはいつなのか」「月は出ていなかったのか」と月齢に引っかかる読者もいるだろう。
天の川が夜空にはっきり見えるのだから、季節は夏から初秋だろう。七夕祭りに対応しているのかもしれない。終盤でカムパネルラが川に落ちた場面は、月が出ていなかったから発見が遅れたのではないか。銀河が川面に大きく映るほどなら、新月に近い夜だったのではないか。こうした推測も、ごく自然に立ち上がる。
さらに、文化圏や植物分布に違和感を覚える読者もいる。
イタリア風の名前が使われているのに、桜、りんどう、カラスウリ、すすきといった日本的な植物が次々に出てくる。「コロラド」「とうもろこし」「アスパラガス」といった語も混ざる。すると、「これはどこの話なのか」「時代や地域を確定したい」という欲求が生まれる。理科の授業から始まる物語だからこそ、なおさらその欲求は強まる。


心理的な読みで引っかかる読者もいる。
カムパネルラの「おっかさんは許してくれるか?」という言葉を、親孝行の美談として読む人もいれば、逆にマザコン的だと感じる人もいるだろう。実際、彼は「お母さんのためなら何でもする」と繰り返し語る。その語りが説教臭く感じられたり、「将来大丈夫だろうか」と余計な心配をしてしまったりする読者もいるはずだ。自分も、子供のころはその一人だった。

そして、多くの読者が強い違和感を覚えるのが、四十五分でカムパネルラの命を諦める父親の判断だ。
父親は冷酷ではないか?季節はおそらく夏か秋、落ちて四十五分なら、まだ他にできることがあるのではないか?下流の中洲や浅瀬に流れ着いて、生きている可能性はなかったのか?あるいは、もっと穿った読みをすれば、息子にいなくなってほしい理由があったのではないか、とまで考えてしまう読者もいるかもしれない。

重要なのは、これらの感想がどれも成立してしまい、作中で否定されないという点だ。
『銀河鉄道の夜』は、「どこが面白かったか」だけでなく、「どこで引っかかったか」「どこが耐えられなかったか」までも含めて、一つの読書体験として設計されている。
つまりこの作品では、読者が感じた違和感そのものが、物語の外にあるノイズではなく、物語の一部になっている。

整合と破綻の物語

時代や地域を確定しようとする読みは、「本質を見ていない」と切り捨てられがちだ。しかし実際には、それは本質に至る直前での、もっとも誠実な抵抗ではないだろうか。宮沢賢治は地学や天文の知識を持っていたのだから、やろうと思えば地理的・文化的・科学的整合性をすべて取ることもできたはずだ。それでも、あえて破綻を残している。実際、冒頭の銀河の説明は当時として正確だ。

この童話は、前半で整合的理解を促し、その理解が破綻する地点を用意している。前半に理科の授業を置き、後半で理科的態度を放棄させ、文学的・宗教的な話題を出す。そして整合性のある最終解答を与えず、意図的に「引っかかる箇所」を大量に用意している。

国語の授業で読む場合、読者は後半を「本質」として読みがちだが、私が子供のころの自分に言えるとしたら、「「自分がどこで引っかかったのか?」を大切にしてほしい」ということだ。それは読みの失敗ではなく、この作品が読者に要求している態度そのものだからだ。
子供のころに感じた違和感であったが、久しぶりに『銀河鉄道の夜』を読み返して肯定することができた。


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