ごんぎつねと衛生観念、そして現代の政治的分断


ごんぎつねと「汚さ」の問題

新美南吉の『ごんぎつね』は、狐のごんが人間の青年・兵十に誤解され、撃ち殺されるという悲しい物語だ。

学校教材としては「誤解」「思いやり」「悲劇」といったテーマで教えられることが多い。

今回は、この物語を、「衛生観念」という観点から読み解いてみたい。

物語の中では、ごんは兵十に自分が採集した栗や捕獲した魚を届ける。しかし、「狐が口にくわえた食べ物」を、現実的に人間が安心して食べられるだろうか? 

現代人のリアルな感覚を思い起こそう。

人間にとって動物の唾液や毛に触れたものは「不潔」であり、到底口にできない。

ごんの贈り物は、善意であると同時に「食べられない汚物」とも感じられる。ここに注目し、時代や生活環境による受け取り方の分岐を読み取ってみたい。

レミーのおいしいレストランとの比較

この感覚を理解する助けとなるのが、ディズニー/ピクサーの『レミーのおいしいレストラン』である。


この映画の中では、料理好きのネズミである「レミー」が、厨房に立つ。

料理をするネズミの姿はユーモラスで感動的である。

しかし、映画の中のレストランの客の一部は「ネズミが料理するなんて汚い」と言う。

それは観客の一定割合も同じであろう。どれほど愛らしいキャラクターでも、害獣が食べ物に触れることへの嫌悪は拭えない。

つまり、ごんの贈り物を「健気」と感じるか「不潔」と感じるかは、観客や読者の衛生観念の強さに左右される。

『ごんぎつね』と『レミー』は、弱者への共感と不潔さへの嫌悪という二つの感情のせめぎ合いを描いている点で共通している。

教材として読み継がれる理由

では、なぜ現代的な衛生観念を持つ子どもたちが、学校で『ごんぎつね』を読み、「かわいそうだ」と共感できるのか? 

それは現代の生活環境に理由がある。都市化が進んだ今、子どもたちは野生の狐に接する機会がない。狐はアニメや絵本で「かわいい動物」として描かれることが多く、害獣としての実感を伴わない。

さらに授業では「ごんの気持ち」に焦点が当てられ、「汚いかどうか」という衛生的な観点はほとんど扱われない。

だからこそ子どもは抵抗感を持たず、物語を純粋に「思いやりの悲劇」として受け止めやすいのである。

体験と感覚の違い

しかし、体験によって感覚は大きく変わる。

筆者自身、家にネズミが出て食べ物を荒らされた経験があり、それ以来ネズミに対する大きな嫌悪感がある。

『レミー』を見ても「汚い」と感じてしまうし、アニメ『ドラえもん』でドラえもんがネズミを怖がる設定にも深く共感できるようになった。

これは、実際に被害を受けて初めて身体に刻み込まれる防衛感覚だと言える。

同じように、畑を荒らす狐やタヌキに悩まされた経験を持つ人なら、ごんの栗や魚を「健気」とは感じず、「不衛生で迷惑」と見なすかもしれない。

つまり「体験しないとわからない感覚」が、作品の読み方を分岐させる決定的な要因になるのではないか。

現代社会との接点――政治的分断

さて、敢えて視野を広げてみよう。この構図は、現代社会の政治的分断にも重なる。

社会的弱者である移民やホームレスを「助けるべき」と考える人と、「治安が悪化する」「生活を脅かされる」と感じる人の対立である。

直接の被害や脅威を感じていない人は「共生すべきだ」と理想を語るが、現実に被害を経験している人にとっては受け入れがたい場合があり、それが政治的分断を生む。

ごんを「かわいそう」と見るか「仕方なく殺される存在」と見るかの違いは、まさにこの分断と同じ構造を持っているのではないだろうか。

衛生観念や被害体験の有無が、弱者に対する態度を決定づけるのである。

鏡としてのごんぎつね

以上、今回は、『ごんぎつね』は私たち自身の「衛生観念」「弱者観」「現実と理想の距離感」を映し出すということを述べてみた。

狐を「健気な存在」とみなすか「不潔な害獣」とみなすか?

その判断は個人の経験や社会的立場によって異なる。現代社会の分断を理解する鍵となるのではないだろうか。


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