映画『ドライブ・マイ・カー』の感想


2021年の映画「ドライブ・マイ・カー」を見た。

この映画は、村上春樹の短編小説を原作としている。単なる映像化ではなく、複数の短編を重ね合わせて作られている。2022年にアカデミー賞を受賞し、日本アカデミー賞でも多数の賞を受賞した。

物語は演劇、夫婦関係、喪失、語られなかった物語といった複数の層が並行して進行する。上映時間は三時間近くである。台詞量も、非常に多いと言える。

台詞は日本語に限らず、多言語で同時に語られる。日本語、英語、北京語・韓国語。少しだがマレー語やドイツ語も登場する。「韓国語手話」を使う主要登場人物までいるので、ほとんどの観客はどこかで字幕や通訳者を通して間接的に台詞を鑑賞せざるを得ない仕掛けになっている。そして、劇中で演じられるのはチェーホフのロシア戯曲だ。

この物語は主に家福と高槻という男性の視点から進み、女性たち(音・みさき・ユナ・ジャニス)は謎めいた存在として描かれる。彼女たちは、裏表があり、本心を語らない存在として立ち現れる。この視点が、「音」や「みさき」といった人物が最後まで理解されない一つの理由でもある。

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年齢レーティングについて、その他

今回自分は、海外公開用の「インターナショナル版」を配信サービスで見たのだが、インターナショナル版は R15+ という指定になっていた。

実際は、背中とお尻が一部出ている程度で、それほど露出が多いというわけでもなかった。ただ上品な中年女性(音(おと)=霧島れいか)のきれいな背中と、彼女が「オナニー」などという言葉を発する場面はx興奮したx印象に残った。

彼女が「オナニーを・・」と言う場面は二度ほどあるが、いずれも強い意外性がある。この意外性は、性的な刺激というよりも、「語られないはずのものが、唐突に言語化される」ことから生じているように思われる。

冒頭で提示されるのは、音の裸体と、「オナニーしたい衝動」といった、あまりにも率直で直接的な言葉である。しかし映画はその直後から、まったく異なる質の場面を重ねてくる。夕暮れの逆光の中で語られる、異様で輪郭の定まらない物語。音が紡ぐその話は、意味があるようでいて、決定的な解釈にたどり着かない。登場人物たちは何かを象徴しているようでありながら、最終的に「これは何の話なのか」と問われると答えが残らない。この暗がりの物語は、先ほどまでの率直な身体と言葉とは正反対の位置にある。

冒頭の裸体と言葉が示しているのは、「理解できるもの」、あるいは「理解できてしまうもの」である。一方、夕暮れの逆光と異様な物語が示しているのは、「理解できないもの」、もしくは「理解したつもりになれないもの」だ。映画はこの二つを時間的に連続させる。

音は、率直な身体性と、最後まで把握できない謎とを同時に抱えた存在として現れる。そして、人間一般が、理解可能な側面と、決して回収されない側面を併せ持っているという事実を示しているように思われる。

この構造は、映画全体の主題とも重なる。相手の言葉や心情を理解できてしまうこと、率直に語られるものを受け取れてしまうこと。その一方で、どれだけ近づいてもなお残る暗がり、語られたのに理解できない物語が存在すること。

ドライブ・マイ・カーは、理解可能性と不可解さを対立させるのではなく、同一の人物、同一の関係の中に重ね合わせている。冒頭の裸体は「理解できるものから始める」という罠であり、その後に続く理解不能な物語を、より深く、より不安定なものとして浮かび上がらせる装置となっている。

似た構造の映画

この映画を観ながら、似た構造をもつ作品として思い浮かんだのが、クリント・イーストウッド監督の「グラン・トリノ」であった。

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どちらの映画も、中高年の男性を主人公に据え、彼らと次世代の若者とのあいだにある反発と理解を描いている。世代の断絶、価値観の違い、言葉の通じなさが物語の出発点となり、衝突を経て、ある種の継承へと向かっていく。

また象徴的に「自動車」が重要な役割を果たす。

主人公が大切にしてきた車は、単なる所有物ではなく、その人生や価値観そのものを体現している。そして物語の終盤で、その車を「誰に引き渡すのか?」が、主題として浮かび上がる。

しかし、決定的な違いもある。『グラン・トリノ』はきわめて分かりやすい映画だった。感情の因果関係は明確で、人物の動機も説明的に提示される。とくに女性の登場人物は、謎として残される存在ではなく、理解可能であった。誰が何を思い、なぜその行動に至ったのかが、観客に共有される構造になっている。

それに対して『ドライブ・マイ・カー』では、理解そのものが主題として宙づりにされる。女性は最後まで完全には説明されず、動機も感情も語り切られない。車の「引き渡し」も、明確な贈与や継承という形ではなく、余白と沈黙のなかで行われるのである。

現実と舞台の同期

主人公の家福は演劇の演出家であり、車を運転しながらカセットテープで台詞を反復する習慣を持つ。その車内という閉じた空間で反復される声は、彼の記憶と後悔を象徴している。家福は演劇祭に参加し、チェーホフの「ワーニャ伯父さん」を演出するが、映画ではこの劇中劇の内容を丁寧に説明していない。そのため初見では、舞台上の台詞と映画内の現実がどのように関係しているのかが分かりにくい。実際、内容を知らないで見ると「置いていかれる」感覚が強い。

実際に原作戯曲を読んだうえで再鑑賞してはじめて、両者が「同期」して重なっていることに気づかされる。


この映画では、舞台上の出来事と現実の出来事が、説明されることなく同じリズムで反復される。ヤツメウナギの輪廻の話題に合わせてレコードが同じ箇所を音飛びする場面、高槻が監視カメラについて語りながら自らが監視される存在であること、みさきと家福が生家で交わす会話が『ワーニャ伯父さん』の主題と共鳴することなどが、その典型である。そこではどちらが「原因」でどちらが「結果」なのかは明示されず、ただ似た構造が同時に立ち上がる。

自動車の中で高槻が家福に「物語」の続きを語る長いシーンは、明瞭な言葉でよどみなく語られ、日常会話の現実感から大きく離れていて、まるで舞台の場面のようである。

山賀の物語

本作で、謎として残されるのが、家福の妻・音の存在である。音は途中で急死し、最後まで語られない物語を残す。

彼女が家福や高槻に語っていた話は、終わったのか?それともまだ、続きがあったのだろうか?物語に登場する女子高生や山賀という人物は何を指しているのか?音は家福を裏切っていたのか、それとも愛していたのか? これらの問いには、映画は明確な答えを与えない。

一つの読みとして、女子高生を音自身、山賀を家福と考えることができると思った。山賀の部屋は山賀の精神や心を表し、「本当の空き巣」は幼くして亡くなった娘に対応している。娘は、妻である音には決して真似できない仕方で、家福の心に入り込む存在だった。しかし娘は亡くなってしまい、その「本当の空き巣」は失われる。音はその死を「自分が殺した」と感じており、家福は心の中に監視カメラを設置するように、他者が入り込みにくい精神状態になってしまった、と読むことができる。

一方で別の解釈も成り立つ。「本当の空き巣」を、音の浮気に気づいた家福自身とみなす読みである。この場合、「左目を攻撃する」という描写は、緑内障を患う家福に対応する。どちらの解釈を採るにせよ重要なのは、この映画が謎を解かせるのではなく、謎を残したまま観客に考え続けさせる構造を持っている点である。

鑑賞後に残る感情は、理解への諦めと、それでもなお生き続けるしかないという感覚だった。夫婦であっても他者は完全には理解できない。しかし同時に、言語や文化を越えて、部分的な理解が生まれる瞬間(ユナとジャニスの相互理解)も描かれる。喪失を抱えたまま日常が続いていくという感覚は、『ワーニャ伯父さん』の主題とも重なっている。

ところで、映画の字幕ではこの人物の名は「山賀」と表記されているが、劇中で耳にする音は一貫して「ヤマガ」であったように思う。鑑賞中、自分はこの名前を文字としてではなく音として受け取りながら、別の連想をしていた。主人公・家福の「福」を「禍」に置き換えると「家禍」となり、それが「ヤマガ」と読めるのではないか、つまりヤマガという存在は家福自身、あるいは家福の内部にある何かを暗示しているのではないか、と考えながら観ていた。この読みはあくまで個人的な連想に基づくものだが、音だけが先行し、意味が確定しないという点で、この映画の「理解できそうで理解できない」構造ともよく響き合っているように感じた。実際のところ、「山賀/ヤマガ」という名前について、監督や原作において何らかの公式な設定や説明は存在するのだろうか? 

演技と他者理解

さて、登場人物の多くが俳優であることが、この映画の重要な仕掛けである。演劇の台詞と本心からの言葉が混ざり合い、どこまでが演技でどこからが感情なのか分かりにくい。その混乱は、現実の会話にも通じている。演劇稽古の場面で語られる「相手の台詞を acting cue のように使ってしまう」というジャニスの指摘は象徴的だ。現実でも、相手を理解して、会話を円滑に進めることはできるが、その結果として本当に言いたいことが言えないまま終わることがある。

つまり、会話が次第に「演技のための cue」へと変質していく。cue とは、相手の台詞を合図として受け取り、次の動作や発話へ移行するためのものだ。稽古の場面で問題にされているのは、相手の台詞を内容としてではなく、単なるタイミングの信号として消費してしまう態度である。そこでは相手の言葉は、向き合う対象ではなく、自分の反応を起動させるスイッチに近い。

次の段階として、脚本を深く読み、会話相手の台詞まで理解して、「相手の心情を理解すること」が提示される。相手の言葉の背景や感情を理解し、その人物として自然に応答すること。それによって よりよい反応、より洗練された演技や会話が可能になる。ここまでは、一見すると理想的なコミュニケーションのように見える。

だが、この映画が静かに示しているのは、その「うまく反応できる状態」そのものが、次の問題を孕んでいるという事実である。相手の心情を先読みし、理解し、最適な言葉を返せるようになるほど、会話は円滑になり、衝突は避けられる。しかし同時に、その会話はますます「設計されたもの」になっていく。自分の言葉は、相手にどう届くか、場を壊さないかという基準で選別され、本心は後景へと退いていく。

その結果として生まれるのが、「本心を語らない会話」である。そこでは理解は成立している。共感もある。反応も適切だ。しかし、語られるべきだった言葉、ためらいの中で沈黙した感情は、結局一度も声にならない。演技としては成功しているが、自己の告白としては失敗している状態だと言える。

この構造は、演劇の世界だけではなく、私たちの日常そのものに当てはまるだろう。相手を理解しすぎること、うまく反応できてしまうことが、必ずしも誠実な会話につながらない。むしろそれは、「語らなくても済む人生」を完成させてしまう危険を孕んでいる。衝突も告白もないまま、滑らかな会話だけを重ね、気づいたときには、本当に言うべき言葉を一度も語らないまま、この世を去っていくのである。

映画「ドライブ・マイ・カー」では、「理解できてしまうこと」「うまく反応できてしまうこと」が、いかに容易に人生を演劇化してしまうか、その危うさが描かれていると言える。演技のための cue から始まった会話が、理解を経て、最終的に本心を排除していくのであった。

家福夫妻の関係

家福夫妻の関係は、この映画における「語られないこと」の最も濃密な実例である。本作では、子を失った、あるいは子を持たない夫婦の愛情のあり方が、きわめて抑制された仕方で描かれている。家福夫妻は一人娘を失ってから二十年という時間を共に過ごしており、そのあいだ、日常的なセックスは続いている。しかし二人は再び子を持とうとはしなかった。

そのような関係の中で、短い自動車内での会話において、音が「私、あなたで本当によかった」と語る瞬間は、映画全体の中でも最も心が温まる場面のひとつであった。時間にすれば数分にも満たないが、そこには長年言語化されなかった肯定が凝縮されている。だからこそ、この言葉は強い。説明も理由もなく、ただ関係そのものを肯定する言葉として響く。

しかし同時に、この夫婦の関係には決定的な沈黙がある。音は若い男性と肉体関係を持ち、家福はそれを偶然目撃する。にもかかわらず、家福は何も言わず、その場を立ち去り、しかも鍵をかけ忘れる。この行為は極めて印象的であり、観客に多様な読みを許す。

最も素朴な読みとして、「関係性を壊すことを恐れて、裏切りを指摘できなかった」という理解が成り立つ。問い詰めることで、この静かに保たれてきた夫婦の均衡が崩れてしまうことを、家福は無意識に避けたのかもしれない。

別の読みとしては、家福が若い男性に妻を奪われることに、ある種の興奮や安堵を感じていた可能性も考えられる。音が依然として他者に欲望される存在であること、それを自分が「所有」しているという感覚。その確認が、問いただす必要性を失わせたとも読める。あるいは、妻の裏切りを「理解」できてしまったからこそ、何も言わなかったのかもしれない。

重要なのは、家福が沈黙を選んだ理由が一つに定まらない点である。この沈黙は、愛情の欠如ではなく、むしろ関係を壊さないために洗練されすぎた反応として現れている。先に述べたように、相手の心情を理解した結果、本心を語らない会話が成立してしまう。その構造が、夫婦関係という最も親密な場面で、最も痛切な形で示されている。

家福夫妻は、互いを理解していないわけではない。むしろ理解しすぎている。その理解の上に築かれた沈黙が、二人の関係を穏やかに保ちながらも、決定的な言葉を永遠に先送りにしている。その意味でこの夫婦は、愛し合っていながら、最後まで「本心を語らないまま」生きる可能性を体現している存在なのであった。

音以外の女性たち

これまでの感想では、家福夫妻、とりわけ音という人物を中心に論じてきたが、本作にはそれ以外にも重要な女性たちが登場する。ユナ、みさき、そしてジャニスである。彼女たちはいずれも強い印象を残す存在でありながら、音とは異なる距離感で描かれている。その差異を、性的な描写やほのめかしの扱いに注目して整理すると、この映画が一貫して「家福の視点」によって構成されていることが見えてくる。

音は妻であるがゆえに、裸体が直接的に描かれる存在である。ジャニスは家福より一回り以上若い世代に属し、同年代である高槻との関係性が暗示される。ユナについては、ユンスの妻となる経緯が語られ、性は個人の内面というより、人生の選択や関係性の一部として配置されている。

それに対して、みさきには恋愛や性的な要素がほとんど与えられない。みさきは家福にとって、恋人や配偶者になりうる存在ではなく、むしろ亡くなった娘の代替、あるいは「家族」という枠組みで接続される存在として描かれている。彼女の語る厳しかった母の記憶や、ユンスの家で犬と心を通わせていく過程は、性愛ではなく、擬似的な家族関係として配置されている。この非対称性は偶然ではなく、家福の内面構造を反映したものだと考えられる。

つまりこの映画における女性たちは、それぞれが独立した主体であると同時に、家福の人生や記憶との関係性によって配置されている。妻、若者の恋人、他者の妻、娘の代替と、それぞれの役割は、家福の視点から見た距離によって整理されているのである。ここに、女性たちを一つの枠に押し込めるのではなく、あくまで「語り手の限界」を可視化するという、本作の誠実さがある。

音が最後まで理解不能な存在として残る一方で、みさきやユナは、ある程度「理解可能な他者」として描かれる。ジャニスはさらに理解しやすい。その差異は、ドライブ・マイ・カーが描こうとしている、「理解できるもの」と「理解できないもの」の境界を、人物配置のレベルで示しているように思われる。

なお、家福とみさきが共に広島のごみ処理場を訪れる場面は、象徴的でありながら、その意味は明確には説明されない。廃棄されるものが集積される場所であり、記憶や感情の「行き場のなさ」を暗示しているとも読めるが、決定的な解釈には至らない。

制作上の事情として、当初は韓国での撮影が構想されていたが、コロナ禍の影響で広島に変更された、という話が知られている。そのため、広島という土地や、終盤で唐突に韓国へ向かう展開に、どこまで意味を読み込むべきかは慎重になる必要があるだろう。少なくとも映画は、その意味を観客に強く要求してはいない。

コロナ禍なければ韓国だった「ドライブ・マイ・カー」撮影地・広島の快哉 | 毎日新聞
広島の街を、北欧スウェーデン生まれの赤い車「サーブ900」が走り抜けると、新型コロナウイルス禍にあえいできた広島の映画館は活気を取り戻し、映画関係者は「救世主」と快哉(かいさい)を叫んだ。米アカデミー賞4部門にノミネートされた映画「ドライブ・マイ・カー」のロケ地となった広島では、受賞作品が発表され

コロナ禍なければ韓国だった「ドライブ・マイ・カー」撮影地・広島の快哉

当初、作品の舞台として撮影の大部分が予定されていたのは韓国の釜山だった。だが、コロナ禍の影響で変更を余儀なくされ、浮上したのが広島だった。

まとめ

「ドライブ・マイ・カー」は、他者理解という主題をめぐって、非常に多くの台詞が交わされる映画である。登場人物たちは常に語り、説明し、理解しようと努めている。しかしその努力は、必ずしも理解への到達を意味しない。むしろこの映画が繰り返し示すのは、理解できてしまうこと、うまく反応できてしまうことそのものが、沈黙や回避を生み出してしまうという逆説である。

本作では、映画内の現実、劇中の演劇とその稽古、演目である『ワーニャ伯父さん』の物語、音が語る物語、そしてみさきやユンス、高槻が語る過去といった、複数の物語層が同時に進行し、互いに同期し、重なり合っている。一度の鑑賞ではその全貌を掴むことは難しい。

見返すことで、どの場面がどの物語と響き合い、同じ主題を別の形で提示しているのかが、徐々に見えてくる構造になっている。

上映時間は長く、扱われるテーマもある程度重い。「ドライブ・マイ・カー」という自動車CMのようなタイトルから家族でリビングで見たら、冒頭から変な雰囲気になりそうである。また、台詞と字幕、両方に集中することが求められる。

しかし、ある程度しっかり向き合うことができれば、本作は一度きりで消費される映画ではなく、何度も再鑑賞に耐える作品であると思う。理解しようとする行為そのものが鑑賞体験となる、静かだが非常に持続力のある映画だと感じられた。


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