子供のころの読書体験
子供のころ、家の本棚にあった夏目漱石『坊っちゃん』を手に取って読んだ。新潮文庫の薄い一冊で、カバーもなくなっていたのを覚えている。今でも小学生が読んで楽しめる、もっとも親しみやすい古典のひとつだろう。
物語は、下女に「坊っちゃん」と呼ばれて育った無鉄砲な少年が、成長して物理学校に進み、教師として四国の中学校へ赴任するところから始まる。二十歳そこそこの青年教師は、同僚たちにあだ名をつけ、とりわけ「赤シャツ」と名付けた教頭を敵視する。そして着任してわずか一、二か月で上司を殴りつけ、そのまま辞職して東京へ帰ってしまう。
「痛快」か、暴力非行青年か
もっとも、現代の読者の中には「それほど楽しめなかった」と感想を記す人も少なくない。読み返してみれば、確かにそう感じるのも当然である。
着任早々に上司を暴力で退ける展開は、今の目で見れば無茶である。その根拠となるスキャンダルも伝聞にすぎない。言い換えれば、噂に飛びつくフェイクニュース信者のような姿である。また、他人の外見を「狸」「うらなり」などと、あだ名にして揶揄する態度は差別的であり、田舎を「不浄の地」と呼んで蔑む地域差別や、女性を軽んじる発言なども目立つ。口の悪さを笑えるかどうかは、現代では受け手によって不快に感じられても不思議ではない。
勧善懲悪と受け止める読み方もあるが、考えてみれば赤シャツは一応職務をこなす教頭であり、罪状とされるのは「マドンナを奪った」「芸者と付き合っている」といった噂話にすぎない。仮に事実であっても、殴って打ちのめすほどの悪とは言いにくい。気に入らない相手に目をつけて因縁をつける主人公の姿は、むしろ「坊っちゃん」側が、いじめをする心理構造にも似ている。

色彩による整理
それでも『坊っちゃん』が今なお「痛快」と読まれるのはなぜだろうか? 一つの理由は、物語が明快で、子供にも大人にも理解しやすいからだろう。それでは、その「わかりやすさ」はどこから来るのだろうか?
私はその一因として、登場人物が「色彩によって整理されている」点があると考えてみた。
赤シャツの赤をはじめ、登場人物それぞれに分かりやすい「色彩イメージ」が与えられており、それが物語全体の見通しを鮮やかにしているのである。
本作における悪役は、教頭であり「赤シャツ」と呼ばれる人物である。帝国大学を出て文学士の学位を持ち、ある意味では夏目漱石自身の投影ともいわれる。だが作中では学識や知性よりも、そのあだ名通り「赤」という色によって鮮やかに象徴されている。
赤シャツの存在は子供でもすぐに理解できるほど露骨である。漫画やアニメに登場する悪役が赤や黒で一発で印象づけられるのと同じように、赤シャツも色彩によって性格づけられている。
その単純明快さこそ、私にとって「文学における色の力」を最初に強く意識させるものだった。子供のころには、むしろ自分でも赤いシャツを着てみたいと憧れた記憶さえある。
しかし、大人になっていま、読み返してみると、『坊っちゃん』の色彩構図は「赤シャツ=赤」というわかりやすさだけにとどまらないことがわかる。
実は他の登場人物や場面にも色が付与されており、それぞれがきわめて整理された形で配置されているのである。そのため人物が混乱せずに立ち現れ、物語の対立や展開が明快に読者に伝わる。漱石はあえて色の混乱を避け、秩序だった色彩設計を行ったのだろう。だからこそ『坊っちゃん』は子供にも分かりやすく、大人にとっても再読に耐える作品になっている。
今回は、「坊っちゃん」を「色彩」という観点から読み直し、その効果と意味を考えていきたい。
赤 vs 青の世界
もっとも分かりやすいのは「赤シャツ」と「うらなり君」の対比である。 赤シャツは名前の通り赤いフランネルのシャツを着て、権威と虚飾の象徴となる。赤は生命や情熱を示すと同時に、虚勢・虚栄・卑劣さの色としても作用する。彼は計算ずくで赤をまとい、自らの権力を彩る。
それに対してうらなり君は「青白い顔」を持つ人物として描かれる。青白さは病弱や無力を連想させるが、同時に誠実で清らかな性格を表す。赤の派手さに対抗する「蒼の清廉さ」として、彼の存在は物語に陰影を与える。
この赤と青の二項対立は物語全体を貫く大きな構図である。
最後の決着の場面でも赤シャツが
顔の色は少々蒼い。
となることで、赤の象徴を失う。漱石は「赤が蒼に転ずる瞬間」を描くことで、色彩の対立にドラマチックな解決を与えているのである。
同じように校長「狸」も、終盤で
狸が蒼くなったり、赤くなったりして、
と描写されるように青色側に傾き、主人公側の勝利を暗示するのである。
黄色の野だいこ
野だいこは一貫して「黄色」に統一されている人物である。
野だでなくては、あんな黄色い声を出して、こんな芸人じみた下駄を穿くものはない。
軽薄で腰巾着的な彼は、赤シャツに追従する存在だ。ターナー島の場面で「ターナーですね」と追従する。
終盤では赤シャツとともに殴りつけられた上、卵の黄身をぶつけられ、顔中黄色になる。
玉子を二つ取り出して、やっと云いながら、野だの面へ擲きつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。
こん畜生、こん畜生と云いながら残る六つを無茶苦茶に擲きつけたら、野だは顔中黄色になった。
まさに色彩の帰結として黄色に染まる結果に終わる。
黄色は西洋でも「卑怯・裏切り」の色としてネガティブな意味を持つ。漱石はそれを利用し、野だいこのキャラクターを「黄色=軽薄・卑怯・滑稽」として完成させている。赤と黄という派手で落ち着かない色の組み合わせは、彼ら二人を俗悪コンビとして読者に刻み込む。
白黒と無彩色の介入
『坊っちゃん』の色彩構図は「赤シャツ=赤、うらなり=青」という対立であるが、そこに、主人公側の山嵐や清の役割が加わる。
まず「山嵐」である。彼は「黒と白」を併せ持つモノクロ的存在だ。剛直さや力強さを示す黒と、正義感を象徴する白。その両面を兼ね備えることで、赤シャツへの対抗軸となり、坊っちゃんの直情的な正直さと共鳴する。
次に、坊っちゃんが心から慕う下女の「清」である。彼女はまさに「白」の象徴だろう。もし清の名前が「菊」や「梅」「金」「松」であったなら、物語の色彩構図に混線が生じていたに違いない。清という名前自体が、白く澄んだイメージを持ち、他の色と交わらない純粋性を示している。
さらに清が少年時代の「坊っちゃん」に与える品々を見てみると、色彩の選択がきわめて慎重であることがわかる。
折々は自分の小遣いで金鍔や紅梅焼を買ってくれる。寒い夜などはひそかに蕎麦粉を仕入れておいて、いつの間にか寝ている枕元へ蕎麦湯を持って来てくれる。時には鍋焼きうどんさえ買ってくれた。ただ食べ物ばかりではない。靴足袋ももらった。鉛筆も貰った、帳面も貰った。
これらはいずれも白や黒、あるいは地味な色彩の品々であった。
坊っちゃん自身も
男は白い麻を使うもんだ
と言い、白という色を愛していることがわかる。
坊っちゃん自身は、基本的には「無彩色」の人物である。ときに、外部からは「赤手拭先生」と呼ばれ、「赤」のラベルを押し付けられる。これは彼の直情さが「赤」に誤解される構図であり、計算ずくの虚飾である赤シャツの「赤」とは正反対の「無垢な赤気」を示していると捉えられるだろう。
そして、「マドンナ」は美しい女性として登場するが、彼女にも特定の色は与えられない。マドンナの登場場面では「色が白い」という一般的な美人の形容がされるものの、「水晶の珠を香水で温めて掌に握ったような心持ち」という比喩が使われている。ここでの「水晶」は透明で無色、そして「香水」は色よりも香りに訴える存在である。
こうして、マドンナは「透明感」や「気配」として表現されているといえる。赤や青の対立の外に置かれることで、マドンナは「欲望の対象」でありつつも色彩対立の秩序に干渉しない。坊っちゃん(無彩色)と対応しつつも、動かす無彩色(坊っちゃん)と動かない無彩色(マドンナ)として対比されているのである。
緑について
緑は本来、自然や調和を象徴する色である。 しかし『坊っちゃん』の中では、緑はほとんど登場せず、むしろ意図的に排除されているように見える。そのため物語全体は「調和」よりも「対立」の構造が前面に出る。
まず冒頭で
南上がりにいささかばかりの菜園があって……
とあり、一瞬、緑のイメージが立ち上がる。ところが直後に
命よりも大事な栗の木
が置かれ、緑はすぐに褐色へと上書きされる。もしこれが栗ではなく「柿」だったら、赤の印象が強くなりすぎて、物語全体の赤の秩序を乱しただろう。漱石は緑や赤の強烈さを避けるために、あえて褐色の栗を配しているように読める。
バッタのくだりにおいては、バッタの緑色は本来目立つはずだが、作中では夜の闇に隠され、緑の印象が避けられている。
唯一目立つ例外は、清の好物として出てくる「越後の笹飴」である。「清が笹ごとむしゃむしゃ食べる」という場面で、笹の緑が強く描かれている。
そして、この緑は、坊っちゃんをめぐる「赤 vs 青」に「白・黒」が絡む色の対立構造とは無関係である。物語の中盤以降、この笹飴の「緑」は姿を消していく。
仕込まれた色彩構図
「坊っちゃん」の子供時代のいたずらに、すでに「赤との対立」の原風景が見える。人参畑(赤の野菜)を踏みつぶし、さらに井戸を塞いだ件では、古川が「真っ赤になって怒鳴り込んで来た」とある。坊っちゃんは幼少の段階から「赤」と衝突する運命を生きているのだ。
松山に到着した場面でも、最初に目に飛び込むのは「真っ裸に赤ふんどし」の船頭である。新天地の入口で再び赤が現れ、これからの物語が「赤との闘争」になることを予告している。
一方、気分がほどける局面では「青」が優勢になる。赤シャツと野だいこと釣りに出る章は、その対照が特に鮮明だ。舟に出て心がゆるむと、海は「波は全くない」「これで海だとは受け取りにくいほど平たい」と描かれ、場の空気は静穏=クールトーンへ傾く。島を見て主人公が「おれには青嶋でたくさんだ」と言うのも、自ら“青”を選び取る宣言である。やがて釣りをやめて「胴の間へ仰向けになって、さっきから大空を眺めていた」。このとき、視線は空へ抜け、気分の鎮静とともに青が戻ってくる。
ただし、噂話が聞こえてくると、青はにわかに翳る。
青空を見ていると、日の光がだんだん弱って来て、少しはひやりとする風が吹き出した。線香の烟のような雲が、透き徹る底の上を静かに伸して行ったと思ったら、いつしか底の奥に流れ込んで、うすくもやを掛けたようになった。
青の画面が、微妙に濁っていく描写である。
そして赤シャツの口にのぼる言葉は、場の色温度を上げる。
もう秋ですね、浜の方は靄でセピヤ色になった。いい景色だ。」
と語るとき、視界は暖色に染まり、雰囲気はどこかささくれる方向へと回り出す。
要するに、色はキャラクターの塗り分けだけでなく、ムードそのものを描いている。青が鎮め、暖色がいら立ちを呼び込む。その切り替えに目を留めると、この釣りの一節は一段と立体的に読めるようになる。
クライマックスで坊っちゃんが赤シャツや野だいこを殴る場面でも、血は流れない。普通なら暴力=流血となるが、漱石はそれを避けている。 その理由は明白だ。血が出れば「赤」が混ざり、赤シャツの虚飾の赤と同質化してしまう。漱石は色彩の秩序を守るために、血の「赤」を排除したのである。結果として、野だいこは黄色に、赤シャツは蒼に、坊っちゃんは無彩色のまま、秩序正しい決着がつく。
社会批評としての色彩ラベリング
このように、『坊っちゃん』で色彩を整理すると物語の理解は確かにしやすくなる。
しかし一方で、この小説は多くのステレオタイプや偏見に満ちている。登場人物は出身地によって「東京」「田舎」や「会津」などと区分され、身体的特徴についても「声が気に食わない」「あの面じゃ駄目だ」「青白い」などと断じられる。また性別に関しても「女のような性分でずるい」といった決めつけが見られる。
こうしたラベリングは、差別や暴力を正当化する働きを持っており、現代的に言えば「反ポリコレ的」な性質を帯びていると言えるだろう。第一印象のレッテル貼りがそのまま暴行や排除につながる場面さえ描かれているのである。
さらに、色のラベリングを現実社会にそのまま持ち込むことには大きな危険がある。
ここで視野を広げて、世界の歴史に目を向けてみよう。
欧米社会では、人種を「黒人」「黄人」「白人」と色で呼ぶことは差別やステレオタイプを固定化してきた。政治の場面でも「赤=共産主義」「青=保守」と単純化されることで、思想や立場が色に還元され、分断を煽る要因となった。学校や職場でも「あの人は青白い」「赤ら顔」といった言葉が、烙印やいじめにつながる場合がある。
つまり色のラベリングは理解のしやすさを与える代わりに、差別や排除を生みやすい仕組みでもあるのだ。
『坊っちゃん』を読むときには、色彩の秩序を分析することが物語の把握を助けるだけでなく、そのラベリングが現実社会でどのように作用するのかを批評的に考える視点を持つことが重要である。
色彩整理の効果と危険性
『坊っちゃん』を色彩の観点から読むと、登場人物が赤・青・黄・白黒・無彩色に秩序正しく配置されている様子が見えてくる。緑は排除され、血の赤も描かれない。漱石はまるで絵画のように「色の調和」ではなく「色の対立」で世界を設計した。
この整理があるからこそ、「坊っちゃん」は子供でも直感的に楽しむことができる。大人は、構造の鮮やかさに驚き「わかりやすくて、痛快、勧善懲悪な小説!」という感想を持つ。だが同時に、それは「色で人をラベリングする危うさ」を内包している。現実世界において人を色で分類すれば、多様性や本質を見失うであろう。
まとめ
『坊っちゃん』は、色彩の整理が物語に与える力を示すと同時に、社会における色彩ラベリングの危険を考えさせる作品であるとも言える。人物が色の観点から見ても綺麗に善と悪に整理されていることが、この作品の「痛快さ・わかりやすさ」に一役買っていると言えるであろう。

コメント